気が付いたら遠い屋根の端っこは、夕焼けというにはいささか不健康な花色に染まってきていた。
いつもの交差点には、今日もまた、ポルカ、ポルカ、という、卓球独特の音が響いていた。
そしてわたしは、自分が遠い昔に鳴らすのを止めてしまった音に、普段よりいちだんと長く立ちすくんでいた。
最寄のちっぽけな駅から家への帰り道の途中に、その音はいつも響いている。閉店時間を知らせる「蛍の光」みたいに、夕方になると、ずっと。
交差点というよりは、まるで、住宅街の中で偶然道が四本集まったような、一本きりの電信柱がやけに寒々とした一角。
そこにある、灰色のホンダが一台で入り口をふさいでいる小さな車庫の、表からは見えない奥のほうから、ポルカ、ポルカ……と、誰かが、あの懐かしい音を刻みつづけているんだ。
いつもなら、少しだけ聞き入って、足早に通り過ぎる道なのに。
たまたま、遅い帰りになった今日に――こんな時間になってまで、その音が続いていることを、知ってしまった。
ポルカ、ポルカ……。その音だけが、ずうっと。
そこにはいつも、何の言葉もなかった。体育のときに、男の子たちがあげるような快哉もなく、女の子たちが自他の失敗を嬉しがる嬌声もない。
だからわたしは、勝手に、でも不思議と確信をもって感じている。
あの灰色のホンダの向こうの、彼だか彼女だかもわからないその子は、とにかく何らかの方法で、たった一人で卓球をしつづけているのだと。
そんなどうしようもない想像の前に、わたしはもう長いこと立ちすくんでいた。
何かをするわけでもなく、手持ち無沙汰に、近くのブロック塀とツタの間に貼りついた、季節外れのカタツムリを撫でながら。
もし、撫で続けるあいだに情が生まれて、このカタツムリに話しかけて、おともだちになれたとしたらどうだろう?
それじゃあ、意味がない。あの、ポルカ、ポルカ、と響くあの音に踏み込めなくっちゃ、立ちすくんだ意味は、これっぽっちもないんだ。
今送っている生活は、取り立てて寂しいものでもないし、今以上におともだちがほしいなんて思わない。なのに。
『同じ卓球をやるおともだち同士、仲良くしましょうね……』
卓球教室の先生の言葉がよみがえる。
あの頃、おともだちという言葉の濫用にしか思えなかったそれが、どうしようもなく甘やかなものだったことに、今さら、気付く。
わたしはもう、していないんだ。
きっと年もずいぶんと違って、わたしは何もかもがぎこちなく不自然で、おともだちになんか、なってあげられない。
そして、何よりわたしを邪魔するのは、「なってあげよう」と思っている自分だった。寂しげでも楽しさを失わないあのリズムを響かせている相手を、なんとかして上から見ようとしている、黙りこくった自分だった。
ポルカ、ポルカ。
わたしはきっと、きれいすぎるこの音を汚してしまう。だけど聞いていたくて、だから立ちすくんで。
つい力のこもってしまった指先で、カリカリと軽い音がした。
軽い軽い、殻の音。
よく見てみれば、季節外れのカタツムリには、とうに中身がなかったんだ。
わたしは抜け殻のカタツムリをそっとはがすと、心の中でそれにエナメルを塗るふりをして、そっと手のひらで包みこんだ。
それで満たされようとしている自分をそこに認めた。
いつの間にか、ずいぶんずるいやつになってしまった気がする。
ふと明かりが見えた。通り過ぎていった白い猫に反応して、どこかの玄関の明かりがついて、じじっ、と音を立ててまた消える。
わずかにわたしの家のほうにずれた場所で、それは、わたしを帰れ帰れと急かすように思えた。そうでも思わないと、もう帰れなくなるに違いなかった。
足を踏みだす。二歩、三歩目でさっきの白い猫とすれ違った。その猫があの車庫へ飛び込んだ、のはわたしのただの空想。だって、振り返れない。
ちょうど、六時半を知らせる街灯が一斉についた。
道が明るくなる。今まで花色の中に沈んでいた、黒くて光沢のある家の並びから、一気におのおのの玄関が浮かび上がった。ぼんぼりみたいに並んだ光が、深い谷によく似た、まっすぐな家路を示していた。
その向こうから、二つのヘッドライトがやってくる。もう、道の真ん中にもいられない。
道を空けて、すれ違うかという瞬間に、その車はぴたりと止まって運転席の窓を開けた。
見慣れた、我が家の、深いロゼ色のミニバンだった。
「遅かったねえ」
そのミニバンには、お母さんの優しげな笑顔が乗っている。
「冷蔵庫の中身がなくなっちゃって。買い物行くとこだったん」
「何買うの?」
「んー……。せっかくあんたを拾えたんだし。今夜はファミレスにでも行こか。たまには豪華にさ」
「うん」
まろぶように乗りこんで、座席に寝っ転がると、立ちすくみっぱなしだった腰がしくしくと痛み始めた。
走り出すミニバンの中、窓の端っこから空を見上げる。……ああ、もう、すっかり夜だ。
おともだちになりたいな。
胸の中にその言葉を抱えたまま、きっと誰もが時の流れに乗りこんで穏やかな人生を旅する。あの子だってきっとあの灰色のホンダに乗って。
どうか忘れないで。ポルカ、ポルカ。
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管理人が女につきブログのノリも女性向き気味、かもしらん。
プレイ・バイ・ウェブの「シルバーレイン」に少女キャラでぼちぼちと参加中。