遅くまで学校に居残りして勉強! とシャレこんで、使われてない教室で、こっそり持ち込んだPSPで昨日発売のゲームをしてたら、ついつい全クリアーするまでやっちゃって時刻はとっくに朝4時21分。あっちゃあ。
始発ででも帰るべきかなあ、と見上げた空はしかし、そんな野暮ったい考えを一気に吹き飛ばした。
ガラス越しに押し寄せてくる風のない冷たさは、ひとつのゲームをクリアーした幸せをいっそう盛り上げて、胸をいっぱいに満たす。
私の部屋とは比べ物にもならないほど一面にひろがった教室の窓には、星の見えない夜空がしーんと黒くあって、何の情報も持たないそれはどことなくスタッフロールの終わりに似ていた。それが、胸に、彫刻刀の丸刃みたいなやわらかな削りあとを刻み付けていく。
私はもううきうきしちゃって、手近な窓を開け放すと、同じクラスのえっちゃんが中庭の巨木の根元でうずくまって泣いていた。
始発ででも帰るべきだろう、と思い出して窓を閉めようとすると、
「青山さんは冷たい!」
そんなこと言われましても。
二階まで聞こえるんだからそうとう大きな声で叫ばれたらしい。見ると、うつむいたまま上目遣いにこっちを睨んでる。
「どーしたよぉ」
「お父さんが酔っ払って、お母さんとケンカして、私も殴られて、もう何もかも嫌になって」
「またかい」
「青山さんは冷たい!」
「またかい」
「……そ、それで、家出しようと思って……そしたら、自転車で走ってたのが、通学路だったの。だから、もっともっと嫌になって」
「はあ……」
えっちゃんが住んでいるのは有町のほうだっけか。海の香りあふれる港沿いの県道を抜けて、高速を含む高架道路の下のトンネルをダイナミックにどんどんくぐる道だ。
途中にあるショッピングモールには、服やお菓子だけじゃなく魚市場があって、海水を香ばしく焼いたようないいにおいがする。
その道のどこが嫌なのかな、と思って、そう尋ねてみた。
「なにか、見たことのない、新しいモノが見たいと思って家出したのに、いつもの通学路を通ってたのが、嫌になったの!」
どうしてわからないかなあ! みたいな言い方をするえっちゃんに、落ち着いて落ち着いてとボディーランゲージを送ってから、
「ゲームやる?」
PSPを掲げて、それを示す。
「私は何か新しいモノが、新しい世界が見たいの! ゲームしたって何も変わらない」
「あ、ごめん、やったことあった? 昨日発売のRPG。CMしてるやつ」
「ない……、けど」
「なら、初めてじゃん」
えっちゃんは、こんな上から見てもくちびるを噛んでるんだろうなってわかるくらいにわなわな震えて、そのうち何も言わなくなった。
ただ、最後に一言、
「青山さんは冷たい!」
えっちゃんは、よくわからない子だ。
そうこうしているうちに、太陽が昇ってきた。
学校の夜明けなんて見るのは初めてで、私は「わあっ」と歓声をあげる。
えっちゃんは朝の陽光と巨木が作り出した真っ暗な影にすっかり沈みこんでまだまだ泣いていたが、きっとそういうものだろう。
だって、ひとつのゲームをクリアーした幸せっていうのは、人に分けられるものじゃあないのだ。
気が付いたら遠い屋根の端っこは、夕焼けというにはいささか不健康な花色に染まってきていた。
いつもの交差点には、今日もまた、ポルカ、ポルカ、という、卓球独特の音が響いていた。
そしてわたしは、自分が遠い昔に鳴らすのを止めてしまった音に、普段よりいちだんと長く立ちすくんでいた。
最寄のちっぽけな駅から家への帰り道の途中に、その音はいつも響いている。閉店時間を知らせる「蛍の光」みたいに、夕方になると、ずっと。
交差点というよりは、まるで、住宅街の中で偶然道が四本集まったような、一本きりの電信柱がやけに寒々とした一角。
そこにある、灰色のホンダが一台で入り口をふさいでいる小さな車庫の、表からは見えない奥のほうから、ポルカ、ポルカ……と、誰かが、あの懐かしい音を刻みつづけているんだ。
いつもなら、少しだけ聞き入って、足早に通り過ぎる道なのに。
たまたま、遅い帰りになった今日に――こんな時間になってまで、その音が続いていることを、知ってしまった。
ポルカ、ポルカ……。その音だけが、ずうっと。
そこにはいつも、何の言葉もなかった。体育のときに、男の子たちがあげるような快哉もなく、女の子たちが自他の失敗を嬉しがる嬌声もない。
だからわたしは、勝手に、でも不思議と確信をもって感じている。
あの灰色のホンダの向こうの、彼だか彼女だかもわからないその子は、とにかく何らかの方法で、たった一人で卓球をしつづけているのだと。
そんなどうしようもない想像の前に、わたしはもう長いこと立ちすくんでいた。
何かをするわけでもなく、手持ち無沙汰に、近くのブロック塀とツタの間に貼りついた、季節外れのカタツムリを撫でながら。
もし、撫で続けるあいだに情が生まれて、このカタツムリに話しかけて、おともだちになれたとしたらどうだろう?
それじゃあ、意味がない。あの、ポルカ、ポルカ、と響くあの音に踏み込めなくっちゃ、立ちすくんだ意味は、これっぽっちもないんだ。
今送っている生活は、取り立てて寂しいものでもないし、今以上におともだちがほしいなんて思わない。なのに。
『同じ卓球をやるおともだち同士、仲良くしましょうね……』
卓球教室の先生の言葉がよみがえる。
あの頃、おともだちという言葉の濫用にしか思えなかったそれが、どうしようもなく甘やかなものだったことに、今さら、気付く。
わたしはもう、していないんだ。
きっと年もずいぶんと違って、わたしは何もかもがぎこちなく不自然で、おともだちになんか、なってあげられない。
そして、何よりわたしを邪魔するのは、「なってあげよう」と思っている自分だった。寂しげでも楽しさを失わないあのリズムを響かせている相手を、なんとかして上から見ようとしている、黙りこくった自分だった。
ポルカ、ポルカ。
わたしはきっと、きれいすぎるこの音を汚してしまう。だけど聞いていたくて、だから立ちすくんで。
つい力のこもってしまった指先で、カリカリと軽い音がした。
軽い軽い、殻の音。
よく見てみれば、季節外れのカタツムリには、とうに中身がなかったんだ。
わたしは抜け殻のカタツムリをそっとはがすと、心の中でそれにエナメルを塗るふりをして、そっと手のひらで包みこんだ。
それで満たされようとしている自分をそこに認めた。
いつの間にか、ずいぶんずるいやつになってしまった気がする。
ふと明かりが見えた。通り過ぎていった白い猫に反応して、どこかの玄関の明かりがついて、じじっ、と音を立ててまた消える。
わずかにわたしの家のほうにずれた場所で、それは、わたしを帰れ帰れと急かすように思えた。そうでも思わないと、もう帰れなくなるに違いなかった。
足を踏みだす。二歩、三歩目でさっきの白い猫とすれ違った。その猫があの車庫へ飛び込んだ、のはわたしのただの空想。だって、振り返れない。
ちょうど、六時半を知らせる街灯が一斉についた。
道が明るくなる。今まで花色の中に沈んでいた、黒くて光沢のある家の並びから、一気におのおのの玄関が浮かび上がった。ぼんぼりみたいに並んだ光が、深い谷によく似た、まっすぐな家路を示していた。
その向こうから、二つのヘッドライトがやってくる。もう、道の真ん中にもいられない。
道を空けて、すれ違うかという瞬間に、その車はぴたりと止まって運転席の窓を開けた。
見慣れた、我が家の、深いロゼ色のミニバンだった。
「遅かったねえ」
そのミニバンには、お母さんの優しげな笑顔が乗っている。
「冷蔵庫の中身がなくなっちゃって。買い物行くとこだったん」
「何買うの?」
「んー……。せっかくあんたを拾えたんだし。今夜はファミレスにでも行こか。たまには豪華にさ」
「うん」
まろぶように乗りこんで、座席に寝っ転がると、立ちすくみっぱなしだった腰がしくしくと痛み始めた。
走り出すミニバンの中、窓の端っこから空を見上げる。……ああ、もう、すっかり夜だ。
おともだちになりたいな。
胸の中にその言葉を抱えたまま、きっと誰もが時の流れに乗りこんで穏やかな人生を旅する。あの子だってきっとあの灰色のホンダに乗って。
どうか忘れないで。ポルカ、ポルカ。
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管理人が女につきブログのノリも女性向き気味、かもしらん。
プレイ・バイ・ウェブの「シルバーレイン」に少女キャラでぼちぼちと参加中。